横浜の観光スポットの一つに挙げられる山手にある外国人墓地と4ヶ所の外国人墓地

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横浜外国人墓地 横浜外国人墓地

横浜の観光スポットの一つに挙げられる山手にある外国人墓地は、公益財団法人横浜外国人墓地の下で運営されています。
横浜外国人墓地は開国にわく1800年代から、多くの外国人達の最後の安らぎの場として広く親しまれています。
墓地内には日本の西洋文化への発展に関わる多くの著名な外国人の墓所もあり、歴史的な観点からも貴重な場所とされています。

この墓地は明治以来、政府から諸外国公館(各国領事団)に貸し与えられた5,600坪(約18,500㎡)の広さを持つ墓所で地方自治体や国の管理下にはなく当財団が管理しています。
この広大な墓地の維持・管理をする為には年間に多額な資金が必要となっています。

横浜外国人墓地

横浜外国人墓地の歴史

横浜外国人墓地には19世紀から20世紀半ばにかけての40ヶ国余、4400人余りの外国人が葬られています。

1854年(嘉永7年)に、2度目の来航により横浜港に寄港していたアメリカ海軍の水兵ロバート・ウィリアムズ(24歳)がフリゲート「ミシシッピ」のマスト上から誤って転落死しました。

艦隊を指揮していたマシュー・ペリーはその埋葬地の用意を幕府に要求、海の見えるところに墓地を設置して欲しいというペリーの意向を受け横浜村の増徳院の境内の一部にウィリアムズの墓が設置されたことが由来です。

その後も外国人死者がその付近に葬られ、1861年(文久元年)に外国人専用の墓地が定められた。

基本的に内部は非公開であですが、3月から12月までの土曜日、日曜日と祝日は公開されています。また埋葬されている人々の業績を紹介する資料館を併設しています。

キリスト教形式の墓石が多い横浜外国人墓地。意外な感じがしますが、元々は、現在の元町にあった真言宗準別格本山増徳院の境内墓地ですので、平成の初期まで、当地では増徳院による供養も行われていました。

横浜の観光スポットの一つに挙げられる山手にある外国人墓地と4ヶ所の外国人墓地

「黒船」4隻を従えたペリー提督は1853年(嘉永6年)三浦半島の久里浜に上陸して幕府に米国大統領フィルモアの国書を渡し開国を迫りました。 翌、1854年ペリーは開国交渉のため7隻の艦隊を組織して再び来日しました。 このとき艦隊の中の一隻ミシシッピー号の乗組員ロバート・ウィリアムズという24歳の二等水兵が墜死し、この水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地をペリーは幕府に要求しました。

協議の後、幕府は横浜村の増徳院(現在の元町一丁目から入った所にあったが大震災で全焼した)の境内の一部を提供することにしました。 ペリーの要求した「海の見える地」という条件にも合い、ウィリアムズはここに埋葬されました。 これが横浜山手の外国人墓地の始まりとなります。
日米和親条約によって伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、ウィリアムズの遺体はこの3ヶ月後にここに移されました。 現在、玉泉寺にはペリー艦隊の日本遠征中に死亡した水兵らアメリカ人5名、ロシア人3名が埋葬されています。
横浜開港後の1859年(安政6年)に攘夷派の武士に本町で殺害されたとみられるロシア使節ムラビヨフの艦隊乗組士官ローマン・モフェトとイワン・ソコロフの二人が、増徳院に隣接する地に埋葬されました。 これらの墓は、現在の22区(元町側通用門/ルゥーリー記念門付近)に当たり外国人墓地として諸外国に貸与された最初の墓区となっていきました。

開国が進み来日する外国人が増加すると共に、日本で亡くなる外国人も増えていきました。 このため増徳院の外国人埋葬地と日本人埋葬地は区別がつきにくくなり、1861年(文久元年)に外国人専用の墓域を定めるために日本人墓地が移転されました。 現在の元町側通用門付近の墓域がこのとき定められた外国人専用のもので、薩英戦争の原因となった1862年9月の生麦事件の犠牲者チャールズ・リチャードソンの墓などがある最も古い区域となったのです。 この後1863年10月カミュ殺害の井土ヶ谷事件、1864年11月のボールドウィンとバードが殺害された鎌倉事件と続きますが、次第に殺害事件は治まっていきました。 1864年(元治元年)横浜居留地覚書き書が幕府とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの各国公使との間で締結され、墓域の拡張が認められることになり増徳院の上の高台に新たに一区域が設けられました。 さらに1866年(慶応2年)横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書が締結され、ほぼ現在の墓域まで拡張されました。

維新直後の1869年(明治2年)外務省は各国領事館に書翰(書簡)を送り、「外国人墓地は従来通り無代で貸し渡すが、維持・修理などの費用は今後は各国領事団で負担して欲しい」旨を伝えました。 これを受けて各国領事団は1870年(明治3年)管理委員会を結成し、外国人墓地の管理運営を委譲することとなったのです。 横浜外国人墓地の管理委員会は1900年(明治33年)4月に財団法人横浜外国人墓地として法人化(2013年1月公益財団法人移行)され、およそ150年近く墓地の管理を続けて現在に至っています。 補足として、 1871年(明治4年)には清国人(現中国人)の墓地は中区大芝台へ移されました。 関東大震災の後に増徳院も平楽に移転して横浜外国人墓地は現在のような 22区5600坪(約18,500㎡)の墓域となりました。 また関東大震災により大半が焼失した埋葬記録も、最近になって5000柱を越す記録となりましたが墓石数は3000程度となっています。

「資料館建設計画」及び「横浜外国人墓地について」より

横浜外国人墓地

 

横浜外国人墓地資料館

横浜外国人墓地に眠る日本の近代化に貢献した外国人たちの足跡や墓地の歴史を展示している資料館です。

横浜外国人墓地資料館は、幕末の米黒船艦隊来航の際の軍人の埋葬により始まった墓地。横浜開港当時の発展に貢献した19世紀の人々をはじめとし、40数カ国の外国人約5,000人が眠っています。資料館には埋葬者の業績を紹介する資料を展示しています。

墓地内は非公開、毎週土・日・祭日(雨天を除く/1月・8月・年末は休止)のみ、墓地維持管理募金のための公開をしています。公開日の開門は12:00、閉門は16:00。募金額は一口200円です。

横浜外国人墓地資料館

住所 〒231-0862
神奈川県横浜市中区山手町96
電話番号 045-622-1311
FAX番号 045-622-1311
URL
開館/閉館時間 10:00~17:00
墓地内は通常非公開ですが、2月から7月および9月から12月まで毎週土・日・祭日(雨天を除く)の12時00分~16時00分に外国人墓地募金公開を行っています。
外国人墓地の維持管理のための募金(200~300円程度)にご協力いただくと,そのお礼として入苑できます
資料館休館日 月曜日(祝日の場合翌平日)
アクセス ・JR京浜東北・根岸線「石川町駅」より徒歩25分
・JR京浜東北・根岸線「桜木町駅」⇒神奈中バス11系統「港の見える丘公園前」下車 徒歩1分
・みなとみらい線「元町・中華街駅」より徒歩3分

4ヶ所の外国人墓地

外国人居留地があった横浜には4ヶ所の外国人専用墓地があります。特に有名なのが観光名所としても知られる山手の外国人墓地ですが、他には保土ヶ谷区狩場町にある英連邦戦死者墓地、中区大芝台にある中華義荘(南京墓地)、そしてもう一ヶ所がJR根岸線山手駅に程近い場所にある「根岸外国人墓地」があります。

根岸外国人墓地(中区仲尾台)

根岸外国人墓地(中区仲尾台)

根岸外国人墓地は、1861年(文久元年)山手の横浜外国人墓地が手狭になったため設けられた横浜市営墓地で、観光スポットにもなっている山手に比べ、市民の間でも知名度は低い墓地です。

第二次世界大戦後米軍に接収され、アメリカ軍兵士と日本人女性との間にできたものの、遺棄された嬰児が多く埋葬されています。

望まれず「GIベビー」として生まれた子供を親が人知れず殺してしまい「死産」として扱われ遺棄された嬰児の亡骸がこの根岸外国人墓地に多数眠っているといいます。その数、800~900体。そのGIベビーを弔う為の慰霊碑もあります。

根岸外国人墓地の余りの荒廃ぶりに、市議会でも取り上げられ、その後横浜市立仲尾台中学校と横浜市立立野小学校の生徒・児童らにより整備され、管理人も置かれました。

戦時中に資料が消失した事でこの墓地についてのそれまでの詳細な経緯が分からなくなってしまっていて、仲尾台中学校歴史研究部の顧問や生徒の研究によって調査が進められているのですが、それでも不明な点が多いのだとか。

現在も160基ほどの墓が確認されており、分かっている範囲では1200名程の外国人がこの土地に埋葬されていて、その中には関東大震災で被災した犠牲者も含まれています。

横浜にある「山手外国人墓地」は、人気観光スポットのひとつだ。海が見え、墓地とは思えない開放的な空気があるため、多くの人々が足を運ぶ。そんな墓地と対照的なのが、近くにありながら薄暗い草の中にひっそりと設けられている「根岸外国人墓地」。ここには、終戦後の日本を生き抜こうとした女たちの想いが眠っている。

『女たちのアンダーグラウンド 戦後横浜の光と闇』(山崎洋子/亜紀書房)は、女性たちの生き様と叫びをすくい上げる1冊。著者の山崎さんは、幼い頃から横浜に憧れ続け、本書を通して「国際社交場」という言葉で覆い隠され闇に葬られてきた横浜の「陰の部分」にスポットを当て、戦後横浜を辿ることにした。

■名前もわからない嬰児の遺体が多く眠る「根岸外国人墓地」
横浜には4つの外国人墓地がある。ひとつは、先述した「山手外国人墓地」。中区山手にあるこの墓地には、開港期の横浜に貢献した外国人が埋葬されている。2つめは保土ケ谷の「英連邦戦死者墓地」、3つめは中区大芝台にある「中華義荘」。中華義荘には、中国から移住してきた中国人とその子孫が眠っている。そして4つめが、横浜の人にもあまり知られていないという「根岸外国人墓地」だ。

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根岸外国人墓地は1967(昭和42)年まで管理者もおらず、墓地としての使用も終戦後許可されていなかった。しかし、横浜で生まれ育った元教師の田村泰治さんが1984年から墓地の清掃とともに歴史調査を開始。埋葬者を調べ上げていったところ、衝撃の事実が明らかとなった。

放置状態だったせいか、実際の墓石は150基程しか残っていなかったそうだが、田村さんを驚かせたのは、2本の木を十字に重ね合わせただけの白い小さな十字架が、ある地点にびっしり立っていたことだ。その碑銘を調べてみると、ほとんどが終戦直後の昭和20年から数年以内のものであることや、アメリカ人と日本人女性の間に生まれた嬰児が多くこの場所に眠っていることが分かった。その数は800近い。

このように嬰児が埋葬されたのには理由があるという。終戦後、横浜には進駐軍が入り、中心部のほとんどは米軍の接収地となった。すると、ある時期から山手外国人墓地に嬰児の遺体がこっそり置いて行かれるようになったのだ。今なら大事件だが、終戦後間もない当時は身元不明の遺体は珍しくなく、日本の警察は占領軍であるGHQの前に無力だったため、その問題には関わりたくないという姿勢を見せたそう。

そんな様子を見かねたのが終戦後、山手外国人墓地の管理人だった安藤寅二さん。当初は山手外国人墓地の空いているスペースに嬰児の遺体を埋葬していたが、日ごとに増える遺体を、米軍が接収している根岸外国人墓地に埋めることにしたのだ。米兵と日本人女性との間に生まれたであろう子は、なぜ亡くなり、孤独に葬られなければならなかったのだろうか…。

■残酷な差別と偏見の歴史を振り返ると――
現代では混血という表現は差別的表現だ。長い鎖国時代を経験したかつての日本では、外国人の風貌だと奇異の目で見られたそうだ。そうした背景を踏まえると、社会的な力のない者や娼妓から産まれた子が生きていくことがどれだけ難しかったのか窺える。時代を遡り徳川家光が将軍の座に君臨した頃、混血児は日本人としては受け入れることができないとされ、その父母兄弟もろとも国外追放するという厳しい沙汰が下っていた。こうした追放制度は時が経つにつれ失われ、手続きを踏めば混血児も日本人として認められるようになったが、差別や偏見をなくすことは難しかった。

娼妓たちも、異国の相手の性処理を行うことには恐怖を感じ、外国人に身を売る女は「らしゃめん」と呼ばれて蔑まれた。そのため、混血児の流産や死産は異常なほど多く、そこに人為的なものが加わっていることはよく知られていたという。親の愛情を受け経済的にも恵まれた混血児にはきちんと社会に出る道が開かれていたが、一方で、差別や偏見にさらされ、自暴自棄に陥り道を踏み外した例が少なくなかったことは『横浜市史稿』に記されている。

こうした歴史は公的機関からみると消したい過去であるかもしれない。だが、彼ら、彼女たちが辿ってきた闇を私たちは忘れてはいけないだろう。すべての人が人間らしく平等に自由に生きられる社会を実現する道は困難かもしれないが、「作りたい」と願い、努力することはできる。そのためにも私たちは“陰の部分”を正しく知る必要がある。

 

中華義荘(中区大芝台)

1871年(明治4年)山手の横浜外国人墓地に埋葬されていた華人、華僑が移されたものである。南京墓地とも呼ばれました。

英連邦戦死者墓地(保土ケ谷区狩場町)

第二次世界大戦後に設けられ、1955年に締結された「日本国における英連邦戦死者墓地に関する協定」によって確認がなされています。管理はコモンウェルス戦争墓地委員会が行っているそうです。

イギリス王室関係者やイギリス連邦加盟国の要人などが来日すると墓地を訪問することがあるということです。
毎年4月25日のANZACの日には、追悼式典が行われています。

 

出典:根岸外国人墓地 (神奈川県横浜市中区仲尾台 墓地 / 墓地) – グルコミ